蓮  光  寺

  ともに いのち かがやく 世界へ      浄 土 真 宗 本 願 寺 派    

     いのち見つめるお寺       見つめよういのち、見つめよう人生。教えに遇い、仏さまに遇い、自分に遇う。

お釈迦さまのみ跡をたずねて

釈尊の時代
 紀元前六世紀頃から紀元前五世紀頃にかけて古代北インドには十六の国がありました。十六国の中でもお釈迦さまと関わりが深いのは、ガンジス河中流域の国々です。ラージャグリハ(王舎城)を首都とし、ビンビサーラ王の治めるマガダ国。シュラヴァースティ(舎衛城)を首都とし、パセナディ王の治めるコーサラ国。ベナレスを中心としたカーシー国。クシナガラを中心としたマッラ国。ヴァイシャリーを中心としたヴァッジ国などです。


 お釈迦さまは、釈迦族の王スッドーダナ(浄飯王)、王妃マーヤー(摩耶夫人)の子として誕生されました。釈迦族はヒマラヤ山麓、現在のインドとネパールにまたがった東西約八十キロ、南北約六十キロの比較的狭い地域に住み、稲作と家畜で生活をしていました。カピラ城に都を置いた小王国でしたが、西隣のコーサラ国の支配下にありました。


釈尊の誕生
 マーヤー王妃は出産のための東隣のコーリヤへ里帰りの途中、ルンビニの園に立ち寄られました。アショーカの美しい花に手を伸ばそうとした際、王妃の右脇から誕生されたと伝えられます。そして七歩あるいて天と地を指差し、   

 天上天下唯我為尊三界皆苦吾当安之
   天の上にも天の下にもただ我を尊しとなす、
   三界は苦なり、吾まさにこれを安んずべし。
 
この物語は、お釈迦さまがこの世にお出ましになった意義を、のちに象徴的に表したものだと考えるべきでしょう。
 七歩とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という、私たちが自ら作った行いによって繰り返していく六つの迷いの世界から、一歩踏み出したということをあらわしています。さとりにいたられた方ということを表します。
 唯我為尊、(また唯我独尊)がありますが、むしろその後の言葉「三界は苦なり吾まさにこれを安んずべし」が大切なのです。私たちの三界とよばれる世界は常に苦しみを生み出していく世界であるから、その苦しみを取り除き、真の安らぎを与えていこうと決意されています。それがさとりの身となられたということです。だから尊いのです。無量寿経には「無上尊と為らん」とあります。お釈迦さまは、我々の苦しみを取り除かんとされたから、この上もなく尊いのです。



アシタ仙人の涙
アシタ仙人は王宮を訪れました。そして王子を抱きかかえると、急に涙を流しました。周囲の人たちは驚いて『何か障りがあるのでしょうか』と尋ねたところ、アシタ仙人は、次のように答えました。「私は、王子に不吉の相があるから泣いたのではない。この王子は、家にあれば、全世界を武器を用いず徳によって征服する偉大な王(転輪聖王)になるであろうし、また、出家すれば、精神界の王として、人類を救済するブッダとなるであろう。いずれにしても、すでに年老いた私は、この方の成人された姿を見ることができない。そう思うとつい悲しくなって涙がこぼれたのである」と。
母との死別
 生母のマーヤーは、出産後まもなく亡くなりました。釈尊の育ての母となったのは、マーヤーの妹で、父シュッドーダナの第二夫人であったマハープラジャーパティでした。彼女はのちに、釈尊に懇請して、最初の比丘尼となり、比丘尼サンガの指導者として尊敬を集めました。

樹下の観耕
 釈尊が幼少の頃、農耕祭でのことです。多くの牛が犂を付けて田を耕すのを眺めていた時、鋤き起こされた土の中から、小さな虫が堀り出されました。それを見つけた小鳥がその虫をついばみ去りました。さらに、その小鳥を大きな鳥(鷹)が襲いました。釈尊は、この弱肉強食の悲しい現実を見て、「なぜ生きものは殺し合わなければならないのだろう」と、もの思いにふけったといいます。



四門出遊
 ある時、お釈迦さまは馬車に乗って東の門から出られました。髪白く、やせ衰え、杖にすがって歩いている人を見られました。
「愚かなる者は、自ら老いる身でありながら、かつ未だ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見ては、おのれのことはうち忘れて、厭い嫌う。考えてみると、わたし
もまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭い嫌うというのは、私にとって相応しいことではない。比丘たちよ、わたしはそのように考えたとき、あらゆる青春の誇りはことごとく断たれてしまった。」
 またある時、南門より出られた時、病人に出会われました。さらにある時、西門から出られた時には死者の葬列に会われました。
 この身も老い、病みそして、必ず死なねばならない現実に深く悩まれました。
 そして北門から出た時に一人の沙門に出会われました。世俗の苦や汚れを離れた清らかな姿を見られ、出家したいと思うようになられました。 
ティラウラコット遺跡
 ルンビニの西北二十四㎞にあり、釈尊の故郷カピラ城跡とされています。東西450m 南北500mの城塞跡です。周囲にはレンガの塀と溝をめぐらし、東西南北に各一から二か所の門、城中に二つの池、八つの建物跡があります。



出家出城
お釈迦さまは、全ての生あるものは老いては若さを失い、病を得、死を迎えるという、この世の生滅を知り、苦しみに満ちていることかと、その一生を憂い悲しみます。ある日、表情も晴れやかで清々しい出家者に出会ったシッダールタは、その生き方に心を奪われ、王子という地位も家族も何もかも捨てて出家を決意するのです。
「その時、わたしはまだ年若くして、漆黒の髪をいただき、幸福と血気とにみちて、人生の春にあった。父母は私の出家を願わなかった。私の出家の決意を知って、父母は慟哭した。」(『マッジマ・ニカーヤ』26より、増谷文雄訳)
 出家とは、文字どおり家・家庭を捨てることです。俗世間の価値観や道徳を超越し、苦悩の解決をめざすのです。
「生死の彼岸を見ない限り、私は再びこのカピラヴァストゥの城には帰らない」
 固い決意のもと、お供のチャンダカを連れて、愛馬カンタカに乗り、真夜中に城を抜けだします。シッダールタは一時も休むことなく走り続けます。太陽が昇る頃、東方のアーマー河畔にて身につけていた美しい装飾品や冠をはずし、持っていた剣で豊かな毛髪を一気に切り落とします。
 通りかかった狩人から自分の絹の服と交換に柿色の粗末な衣をまいます。そして、チャンナに宝冠、衣帯、宝珠を渡し白馬カンタカを牽引して城へ帰らせたのです。



 サンチー第一仏塔、東塔門には、出家出城の場面のレリーフがあります。アショーカ王によって建てられた仏塔を修復拡張して出来上がったもので、紀元前1世紀頃の面影をとどめています。このころの仏伝には、お釈迦さまの姿を直接表現することはしませんでした。お釈迦さまは菩提樹や仏足跡、法輪、傘などで象徴的に表現されます。
 左端の菩提樹が出家前のお釈迦さまです。その右の馬上には傘が差し掛けられ、ここにお釈迦さまが乗っていることが示されます。馬の足は音が出ないよう天が持ち上げています。さらに右上にすすみ、右上端の足跡がお釈迦様が馬から下りられたところです。傘も差し掛けられています。足下にはお釈迦さまに手を合わせている人(チャンナでしょうか)も描かれます。下の馬にはもう傘が差し掛けられていませんから、お釈迦さまは乗られてなく、馬だけが城に帰っているのです。
求 道
二人の修定主義を訪ねる
 二十九歳でカピラ城を出て出家したお釈迦さまは、当時の大国マガダ国に向かいます。王舎城やその近郊で教えを説いていたアーラーラ・カーラーマを訪ねます。アーラーラ・カーラーマは瞑想によって何も所有しない、したがってなにものにも煩わされないの無所有処の境地を目指していました。しかしその教えに満足することはなく、お釈迦さまは非想非非想処の境地を目指していたウッダカ・ラーマプッタを訪ねました。しかしここでも満足することはありませんでした。



苦 行     
 お釈迦さまが次に目指したのは、苦行でした。ウルベーラーの苦行林(前正覚山)に移って6年間の苦行をされました。苦行は、インドでさかんに行われていた修行で、現代でも苦行者がいます。お釈迦さまが実行した苦行は前例をみないほどの激しいもので、食を断ったり、眠らない、息を止めるなどの苦行を6年間も続けました。父浄飯王によって派遣されたとも伝えられる5人も一緒に苦行をされました。
 お釈迦さまはなぜそのような行に挑んだのでしょう。修定主義が邪念の根源を精神に求めたのに対し、苦行主義は逆に、邪念の根源を「不浄なる肉体」に求めます。その肉体を徹底的に痛めつけることにより、精神を肉体から解放しようと考えたのだと思われます。  
 お釈迦さまは厳しい苦行を重ねられましたが、「その行動、その実践、その難行によっても、私は人間の性質を超えた特別完全な聖なる智見に到達しなかった。」として苦行を捨てられました。
 お釈迦さまは苦行を重ねた ウルベーラーの林(前正覚山)からネーランジャラー河沿いに 8km歩き、河で沐浴され、セーナーニー村に辿り着かれました。村の長者の娘スジャーターから乳粥の供養をうけられました。そして体力を回復されたのです。



成 道(じょうどう)
 スジャータから乳粥の供養を受け、体力を回復されたお釈迦さまはガヤー村のピッパラ樹の下に静かに座られました。「我もし無上菩提を得ずんばついにこの座を立たず」と一大決意のもと心を込めて静座しされ、思惟され、ついに煩悩を断じて、禅定に入られさとりを得られたのです。時にお釈迦さま三十五歳、十二月八日の暁であったと伝えられます。ブッダ(「真理を悟った人」の意)となられました。悟りを開くことを成道(じょうどう)といいます。
 お釈迦さまが菩提樹下に座られ思惟しているとき、悪魔はときに誘惑し、また襲いかかってきたとされます。そしてその悪魔を降してさとりを得られたのです。悪魔とは人間の内面的な心の投影、自分の内部に巣くう迷いや煩悩の象徴であったのでしょう。私たちの心の奥にひそんでいる煩悩であるのでしょう。お釈迦さはは煩悩を断じて悟りを開かれたのです。
 釈尊が坐したところのピッパラ樹は、「悟り」を意味する「ボーディ」から「菩提樹」と呼ばれるようになりました。
 釈尊が坐られていたところは金剛座とよばれ、篤く敬われています。その前に釈尊の悟りを記念して仏塔がたてられました。




マハーボディー寺院
 九層からなる、五十二メートルの煉瓦構造の大塔です。二〇〇二年に世界遺産に登録されました。金剛座の手前に建てられています。
釈迦の座った金剛座、そして菩提樹を欄楯で囲み、菩提道場としたことに始まります。紀元前三世紀、アショーカ王が仏塔を建てました。幾度も改修を繰り返し、六世紀ごろには現在の高層の形になっていたことが知られています。その後、十三世紀にイスラム勢力によって破壊されそうになったとき、仏教徒がこの大塔を土中に埋めて守ったと伝えられています。
梵天勧請
 お釈迦さまは自分の悟った教えは深甚微妙(あまりにも深く、微妙である)であり、人々には理解されないであろうと考え、それを人々に説くことは出来ないとそのまま涅槃に入ってしまおうと考えていました。
 それを知ったブラフマー(梵天)をはじめとする天上の神々が、再三お願いすると、釈尊は、相手に応じて、それにふさわしい方法で、いろいろに説き分けることにしようと決心されたのです。その後、サールナートへ向かわれたのです。



初転法輪
 お釈迦さまは初めて説法の相手として、かって師事した二人の仙人アーラーラ・カーラマとウッダカ・ラーマプッタを考えましたが、二人がすでに亡くなっていたことから、修行を共にした五人の比丘を選びました。この五人は苦行を捨てたお釈迦さまを軽蔑し、一旦は分かれた人達です。しかし、かって共に修行をしていたことから、彼らならば深遠な教えを理解してくれると考えたのです。
 初めは拒んでいた五人でしたが、お釈迦さまが徐々に近づくにつれ、その堂々とした姿を見て畏敬の念を抱き、自然に立ち上がって座に迎えられました。その五人に最初の説法をされました。これを初転法輪と言います。このとき説かれた教えは、中道と四諦、八正道の教えであったと考えられています。
五比丘
 お釈迦様が初めて法を説かれたのはかつて修行を共にした五人の比丘でした。この方々はお釈迦さまの身の案じて父王の名によって派遣されたともいわれています。苦行を捨てたお釈迦さまを軽蔑し、一旦は分かれた方々ですが、その説法を聞いて次々とその教えを理解し、お弟子となっていかれたのです。


 コンダンニャ 了本際 お釈迦さまの説法を聞いて最初にさとりを開かれたと伝えられます。お釈迦さまは「コンダンニャは悟れり、コンダンニャは悟れり」と誉め称えられています。悟れるコンダンニャということでアンニャ・コンダンニャと言われます。この人が一番最初の仏弟子です。十大弟子の富楼那の叔父と伝えられます。
 アッサジ   正語 仏弟子の中で歩く姿、その姿勢が素晴らしかったようです。舎利弗は王舎城に托鉢に来たアッサジのすがすがしい姿に感動して、「あなたの師はどんな人ですか?どんな教えを説いているのですか?」と問われました。アッサジはお釈迦さまとその教えの一端を語ると、舎利弗はすぐに仏弟子となったといわれます。そのため舎利弗はアッサジに死ぬまで恩義を感じ、夜も彼がいる方向には足を向けて寝る事がなかったとも伝えられています。
 マハーナーマ 大号 アッサジとともに五人のうちでは最後にさとりを開かれた方です。
 バッディヤ 仁賢 了本際につづいてさとりをえたのが仁賢と正願です。
 ヴァッパ  正願 正願とともにさとりをえた仏弟子と言われています
サールナート 
 サールナートはガンジス河の沐浴で有名なバラナシの郊外にあります。バラナシ(ベナレス)は当時から多くの宗教者がいたとこでも知られています。サールナートには鹿が住んでいて鹿野苑と呼ばれる園がありました。現在はお釈迦さまの初転法輪を記念してダメークストゥーパが建てられています。アショーカ王によって初転法輪のこの地にアショーカ王柱も建てらてました。現在は破損したものがあり、四頭獅子の柱頭は出土した初転法輪像とともに考古博物館に納められています。


.